来たるべき戦争について(民主主義批判)

前置き

戦争はもう始まっている。というより、いま始めないと間に合わない。中国は台湾を取るつもりだが、ここで先手を打たれるのはまずい。我々が先手を取らねばならない。

戦争は敵の意表をついて始めるのがよい。つまり奇襲攻撃である。我々の奇襲は、天皇の中国皇帝への即位である。

台湾に中華民国政府が存在することは僥倖である。中華民国は大清国から皇帝の位を譲り受けているので、彼らを促して、天皇に禅譲を行うように仕向ければよい。中華民国総統が天皇陛下に禅譲を行えば、陛下の中国皇帝への即位が可能になる。その後、陛下が中国皇帝としての権威をもって台湾、チベット、モンゴル、東トルキスタンの独立を宣言し、彼らの恭順を獲得する。こうしてまず外堀を埋める。

世間では米中二大国の衝突が取り沙汰されているが、それは幻に過ぎない。そのように見えるのは、日本が西側諸国に肩入れしているからである。もしも我々が中国側に肩入れすれば、パワーバランスは逆転する。日本と台湾、韓国、中国、そしてASEANが協力すれば、アメリカはもはや敵ではない。八十年前とは全く状況が違うのだから、我々はもう少し余裕を持たねばならない。

中国は一つにまとまっていると手ごわいので、これを分断することを考えねばならない。共産党の切り崩しはまず理論面から行われる。マルクスの誤りは私が指摘したとおりなので、共産主義を言葉によって論破し、説得することは可能である。これによって彼らの力を弱め、同時に天皇陛下の徳を世界に広めてゆく。我々の最終的な目標は、全世界を天皇の下に統合することである。

天皇制の考察

天皇を中心とした世界政府はどのような形をとるべきか。最も分かりやすいのは天皇による専制である。最終的な決定権は天皇が有し、実務は官僚機構が行う。官僚は世界中から試験によって優秀な人間を集める。北宋のような政治体制である。

世界政府には公平性が期待されるので、民主制は避けるべきである。民主制の場合、人口の多い地域の意見が政治に反映されやすくなるので、公平性に欠ける。また、そもそも民主制は市民の利害が政治に反映されやすいので、特定の団体にとって有利になるように政治が誘導される可能性が高い。ゆえに、専制の方がましである。

民主制において公平な政治を実現しようと思ったら、すべての国民が公平な心を持たねばならなくなる。一方、専制においては、君主一人が公平な心を持っていれば、公平な政治を実現することができる。どちらが容易であるかは考えるまでもない。そのため、専制の場合、君主に対する教育が重要な課題となる。

そうは言っても、天皇が周囲の意見を無視して独断で政治を行うようになったらどうするのか、と心配する人がいるかもしれない。そのときは、彼が天皇を諫めればよい。

聖徳太子は十七条憲法の最後で、「それ事は独り断むべからず。必ず衆とともによろしく論ずべし」と述べている。「大事なことは一人で決めずに、みんなで議論をして決めなさい」という意味である。もしも天皇がこれに反する行動をとるならば、祖先の教えに背くのかと諫めればよい。

こう考えてみると、天皇制と独裁は相性が悪いようだ。「それ事は独り断むべからず」が天皇への戒めであるならば、天皇制が合議制に近いものになるのは当然である。天皇はその歴史によって天皇たりえているのだから、歴史を否定したら天皇でなくなってしまう。ゆえに、天皇は天皇であるために祖先の言行を尊重しなければならないので、その行動が厳しく制限される。とても独裁は無理だ。

民主主義批判

民主主義は議論を促すか

学者たちは、民主主義は議論によって成り立っていると言うが、それは嘘である。というのも、民主主義を支えるものは選挙制度だからである。どれだけ盛んに議論が行われていても、選挙によって代表を選ばない政治体制は民主制とは呼ばれえない。一方で、議論がわずかしか行われていなくても、選挙さえ行われていれば民主制と呼ばれうる。ゆえに、民主主義の本質は選挙である。

そして、選挙が必要とされるのは、議論によって物事が決められないからである。もしも、すべての事柄が話し合いによって決定されうるのであれば、多数決は必要ない。多数決による決着が必要とされるのは、話し合いによって結論を出すことができない場合である。話し合いによる解決をあきらめたときに、多数決が行われる。ゆえに民主主義は、議論による問題解決が不可能であることを前提としていると言える。したがって、民主主義の本質は議論だ、という主張は誤りである。

民主主義でなくとも、議論によって物事を決めることは可能である。一方で、民主主義であっても、議論をせずに物事を決めることは可能である。たとえば、党首討論を行わずに選挙を行う場合のように。したがって、民主主義と議論は無関係である。話し合いによって物事を決めることと、選挙によって代表を選ぶことの間には何の関係もない。当然ではあるが。

民主主義は気持ちを重んじる政治である。何が正しいかではなく、人々が何を正しいと思うか、ということがすべてを決める。ある問題を解決するために最善の方法があったとしても、人々がそれを最善であると思わなければ、それが実行されることはない。合理性のかけらもない政治制度である。

民主主義が支持されるのは、どんな課題にも解決策は存在しない、という奇妙な信仰の結果である。人々がある課題に直面したときに、それを解決する方法が分かっていたならば、それを実行すればよい。しかし、解決策が分からず、解決策が存在するかどうかも分からない場合、みんなが納得する方法でやってみよう、という場当たり的な意見が支持されることがある。それが民主主義である。政治的な問題すべてを民主的に解決すべきだという考えは、すべての政治的な問題には解決策が存在しない、というに等しい。

車のエンジンが動かなくなったときに、それを修理する方法を多数決で決めようとする人がいるだろうか。しかし社会が不調を来たした場合、人々はそれを多数決で解決しようとする。まことに奇妙なことである。私には、民主主義は集団ヒステリーの一種であるように思われる。

民主主義は定義可能か

民主主義を擁護する人々は、それを定義することを避ける。民主主義が選挙制度を意味することは明らかなのだが、学者たちは違うという。

彼らによれば、民主主義の精神なるものがあって、それを実践することが民主主義なのだという。ただ選挙を行うだけでは民主主義ではない、と。ではその精神とは何かというと、それは多岐にわたる。というのも、日本では政治家が何か問題を起こすたびに、これは民主的な精神が欠如しているせいだ、と批判されるからである。

あらゆる政治的な問題は民主主義の欠如から起こる。つまり民主主義とは、正しい政治そのものである。ある政治家が正しいことをすれば民主的だと言われ、間違ったことをすれば民主的でないと言われる。そこには一切の基準が存在しない。

学者たちが民主主義の定義を明言しないのは、何か政治的な問題が起きたときに、それが民主主義のせいだと名指しされるのを避けるためである。民主制だとみなされるある国で、何か政治的な事件が起きたときに、それは民主的な精神の欠如によって引き起こされたのだ、と言うために、そして、その事件は民主主義によって引き起こされたのだ、と非難されることを避けるために、彼らは民主主義の定義を与えない。これは一種の宗教であり神学である。

時間意識の欠如

民主主義は国民の意思を政治に反映させることを目的とする。だが、そうして汲み取られた意思は、その瞬間のものでしかない。国民の意思は変化しうる。それが議論を行う意味である。議論によって自分の間違いに気づいた者は、自分の意見を変化させる。そうすると、意思の総体にも変化が起きる。民主主義の欠点は、その変化を考慮に入れることができない点にある。

どんなに工夫しても、民主主義が汲み取れるのはある時点での国民の意思にすぎない。それがどのように変化するかを予想することはできない、というより、してはいけないのである。それが国民を一種のゲームに導く。ある瞬間において国民の意思がどこに傾くか、ということを予想するゲームである。特定の人々にとって有利な瞬間に国民の意思を計れば、彼らに都合のいい結果が得られる。このとき、議論はゲームの道具にすぎなくなる。

投票によって確認された国民の意思は、必ずしも本当の意思であるとは言えない。なぜならば、それはある瞬間における意思の総体にすぎず、意思そのものは時間とともに移り変わるからである。政治が見極めるべきは、国民の意思が向かう先でなければならない。ある瞬間における国民の意思を把握できたとしても、政治にとっては何の足しにもならない。

功利主義批判

功利主義というものがある。これは民主主義と似た思想である。どこが似ているかというと、特定の瞬間における国民の意思を汲み取ろうとする点である。

たとえば、ある政府が国民に毎日アンケートを取って、その日の幸福度を1から10の数字で記入してもらったとしよう。政府は毎日それを集計して、幸福の総量を計る。ここで、x日における幸福の総量をf(x)と表記しよう。そして、fはa日に実際に最大値を記録したとしよう。そうすると、x>aにおいては常にf<f(a)となり、国民の幸福度は全く向上しないことになる。これが、最大多数の最大幸福が実現された後の社会である。

民主主義も功利主義も時間を考慮に入れていない。国民の精神が変化しうるものであることを考えていない。そのために、奇妙な目標を掲げることになる。最大多数の最大幸福は国民の幸福を意味しない。それは未来を見ていない。

たびたび指摘していることだが、西洋の学問は瞬間を切り取ろうとする。時間的な変化を自明とせずに、静止した状態を追い求める。だから、現実と乖離した無意味なおしゃべりに夢中になる。我々はもの自体ではなく、ものの変化に注目しなければならない。それこそが現実である。それが空である。

戦争音痴

西洋の学問は時間変化に弱い。ゆえに、戦争の分析ができない。戦争の勝ち負けを決めるのは数ではなく、時間である。数で劣っていても、先手を取れば有利に勝負を進められる。そういった点を分析できないので、人文系の学者はたいてい戦争音痴になる。

たとえば、ガダルカナルの戦いにおける日本軍の戦略的な稚拙さを滔々と語る知識人がいるが、そもそも真珠湾で失敗していなければ、アメリカはガダルカナルを戦う必要はなかった。真珠湾で日本に先手を取られたので、アメリカは追う側に回ってしまったのである。ガダルカナルにおいて激戦を繰り広げなければならなかったということ自体が、アメリカ軍の戦略的な失敗を意味している。これは諸事象間の因果関係を追わねば理解できないことだが、西洋の学問しか学んでいない人間には、その分析が欠けている。

真珠湾におけるアメリカ軍の損害の大きさは、彼らが戦闘態勢にあったことを示している。日本軍はアメリカ軍に攻撃の意思を認め、彼らが攻撃を始める前にカウンターを決めた。武術の用語でいえば、先の先をとったわけである。この先制攻撃が決まったことで、日本の有利が確定した。戦略においては、日本軍はアメリカ軍よりもはるかに優れている。

中国軍の暴走

最近、尖閣諸島をめぐって中国側に不審な動きが多くなった。これに危機感を抱く人もいて、それは正しいと思うが、それほど警戒する必要もないだろう。あれはむしろ軍の統制が緩み出している証拠ではないだろうか。

いまの中国軍の動きは理性的というより、欲に動かされているように見える。自分が司令官であるうちに何らかの戦果を挙げて、出世競争で有利に立ちたい、そういう欲望が透けて見えるのである。運よく尖閣諸島を獲得できれば、彼は軍内部で一目置かれる存在になるだろう。そうした軍人たちの暗闘が、中国の対外姿勢の上にまで現れてきているのではないか。

むかし関東軍は参謀本部を無視して満洲事変を起こし、満洲国ができた。首謀者の石原莞爾は出世し、のちの日中戦争においても、上司の命令を無視する将校が続出した。これと同じように、戦果を上げるために軍人が暴走するという事態が、いまの中国でも起きているのかもしれない。そう考えざるをえないほど、中国の動きには節操がない。おそらく、共産党指導部は軍の暴走を事後承認するしかなくなっているのだろう。

近年の中国における軍事費の増大もこの推測を裏付ける。急速に拡大する軍事支出は、軍が金びたしになりつつあることを意味している。軍隊は金をかけるほど弱くなることがある。上層部の暮らしがよくなると、軍人は出世のことばかり考え出す。本来は外を見て敵に備えねばならないのだが、その視線が内に向くようになると、軍は弱体化する。

武士は食わねど高楊枝というが、あれは本当で、武士は腹が減っている方が強い。むかしは紅軍とも八路軍とも呼ばれ精強を誇った人民解放軍も、いまやかつてのハングリーさを忘れ、ぶくぶくに肥え太りつつある。私にはいいカモだとしか思えない。

世界最終戦争

最後に、世界最終戦争の話をしたい。

戦争は進化を続ける。古代から近世にかけて、戦争は一次元の形をとった。両軍が兵隊を横一列に並べ、互いに前進して中央で衝突する。この場合、戦闘が行われる領域は一次元の線で表現される。

次に近代においては、個々の兵が各自の判断で敵陣に侵入する、浸透戦術が基本となる。この場合戦線は形成されず、戦闘が行われる領域は二次元の面で表される。たとえばジャングルにおける戦闘では、横一列に兵隊を並べることは難しく、散開しての前進となる。そうすると、戦闘が起きる点は一列に並ばずに、二次元の広がりを見せるだろう。

一次元から二次元に進化した戦争は、最後に三次元の形をとる。縦・横だけでなく上下方向に自由に移動できる技術が確立されたとき、戦闘領域は三次元の広がりを持つことになる。我々が確立しつつあるドローン技術は、このような戦闘を可能にするものであると考えられる。つまり、ドローンを用いた戦争は最終戦争に近い。

ただし、一つだけ欠けているものがある。それは破壊力である。石原が想定したのは、一つ一つのドローンが小型の戦術核を装備するような状況である。そうなれば、戦争は劇的に変化するだろう。そのようなドローン群がアメリカ上空で航空戦を繰り広げる。まことに愉快な光景であるが、それを実現するには我々の技術はいまひとつ足りない。最終戦構想から百年近く経った今でも、我々の技術はまだ彼に追い付いていない。技術の進歩が遅すぎるのである。

ずいぶん話が長くなってしまった。

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