マルティン・ハイデガー『存在と時間』を読み解く

今日は、1927年に発表されたマルティン・ハイデガーの『存在と時間』を読み解きます。先日取り上げたマルクス・ガブリエルさんの『なぜ世界は存在しないのか』と比べると、非常に読みにくく、奇抜な術語が多い本です。できるだけわかりやすく説明したいと思います。

今回参照したのは原佑、渡辺二郎訳『世界の名著62ハイデガー』(中央公論社、1971)です。

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本書の問題意識は、カントによって定式化された「現象」と「物自体」の区別を乗り越え、「物自体」を再び哲学の土俵に引きずり込んで、存在論を再構成することである。これを理解するために、我々はまずカントの哲学を振り返らねばならない。

たとえば、あなたが散歩をしているとき、公園の片隅に猫を見つけたとしよう。猫がいると思って近づいてみると、それは猫ではなく、じつはビニール袋だったとする。このとき、あなたの目に映った「猫のようなもの」が「現象」である。この現象はひとつの心理的な事実として存在する。

一方で「ビニール袋」は客観的な事実のようだが、じつはそれはビニール袋ではなく、ビニール袋のように見える海藻の一種かもしれない。ふつうはそんなことはありえないが、我々の感覚は間違いを犯しうるものであるから、ビニール袋のように見える別のものである可能性もないとは言えない。したがって、我々に与えられた「現象」が客観的な事実、すなわち「物自体」と一致するかどうかは必ずしも明らかではない。我々は決して物自体を把握することはできないのだ、というのがカントの主張である。

これに対してハイデガーは、「ビニール袋」は存在すると主張する。我々がビニール袋を認識できるのは、それが認識可能な存在として、あらかじめ我々に与えられているからだ。彼はこれを「世界内存在」と呼ぶ。認識主体である我々は、認識される対象と独立に存在しているわけではなく、認識される対象とともに、この世界の中に存在する。これを存在了解と言ったり、開示性と言ったりする。

これこそマルクス・ガブリエルが否定した「世界は存在する」という命題である。ハイデガーは世界の存在を主張する。我々は世界の中に一種特権的な存在として、すなわち「現存在」として存在している。現存在とは、大雑把にいえば自己ないし自我という意味だが、ハイデガーにおいては、そこに自己以外の全ての存在も含まれる。我々が客観的な対象を認識できるのは、それがあらかじめ認識可能なものとして我々に与えられているからであり、その意味で、それは我々の存在の一部である。我々はビニール袋をビニール袋として認識できるし、それはその通りのものとして、そこに存在している。なぜならば、ビニール袋は現存在の一部であり、我々自身の存在を構成する要素にすぎないからだ。その限りにおいて、我々はそれを認識しうる。

彼は、カントが設定した主観・客観の対立を越えて、すべてを哲学に取り込むために、それまで客観とされていたものを主観のなかに回収してしまう。ハイデガーの哲学は極度に肥大化した主観によって構成されている。

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このことが最もよく現れているのが、本書第1篇第2章第13節の世界認識に関する議論である。この一節はカントを意識している。重要な部分を引用しよう。

いまやわれわれが、認識作用自身の現象的実状で何が示されているのかを問いたずねるなら、固執されなければならないのは、認識作用自身は世界のもとですでに存在しているということのうちに先行的に根拠づけられているということ、このことであるのだが、世界のもとですでに存在しているということは、現存在の存在を本質上構成しているのである。
現存在は、現存在が差しあたって閉じ込められているおのれの内面圏域からまず出てゆくのではけっしてなく、おのれの第一次的な存在様式から言って、つねにすでに「外部」に存在している、つまり、そのつどすでに暴露されている世界において出会われる存在者のもとで存在している。
対象のもとでこのように「外部に存在している」ときですら現存在は、正しく解された意味では「内面」に存在しているのである。

これらの引用は、私が上で述べた解釈を裏付けるものである。我々が対象を認識する前に、それはすでに我々に開示されていて、だからこそ、我々はそれを認識することができる。認識する前に、あらかじめその対象の存在が我々に与えられているのだ。

この意見のどこに問題があるのだろうか。それはマルクス・ガブリエルと同じく、認識の軽視である。

たとえば、あなたが道を歩いていると、道端に見知らぬ犬がいて、あなたは、その犬の脚に怪我があることに気付いたとしよう。ハイデガーによれば、あなたが犬の脚の怪我を認識できたのは、その怪我の存在があらかじめあなたに開示されていたからである。しかしながら、あなたが怪我の存在を知るのは、その怪我を認識する前ではない。つまり、その怪我の存在が開示されていたことをあなたが知るのは、怪我を認識した後のことであり、認識する前にそれを知っていたわけではない。それならば、それが開示されていたかどうかということに、いったい何の意味があるのか。

もしも、ある対象が我々に対して開示された状態にあるということを、その対象を認識する前に知ることができるのであれば、認識作用は必要なくなる。我々は何かを認識する前に、あらゆることを知っているはずである。

一方で、ある対象が我々に対して開示された状態にあるということを、その対象を認識する前に知ることができないのであれば、それが認識される前から開示された状態にあったということを、我々はどうやって知ればよいのだろうか。そのとき我々は、自分が知りえないことについて知識を持っていると主張していることになるだろう。

つまり、ハイデガーはここで、認識されないものの存在を主張していることになる。なぜならば、対象の開示性は定義上、認識に先立って存在するからである。だが、認識されないものの存在を主張することは人間知性にとって有害である。それは迷信を肯定するに等しい。

知識は認識によって得られる。認識を伴わない知識は不確実であり、知識とは呼べない。およそヨーロッパの哲学には、我々はいかにして知識を獲得するのかという観点が欠けており、思考と対象の一致よりも、思考そのものに焦点があてられる。そこでは知識の獲得は自明なこと、あるいは考察に値しないものと見なされ、無視されてしまう。したがって、西洋哲学には知識論・認識論が欠けており、迷信と大差ないものだと言わざるをえない。

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以上で『存在と時間』は論破されたが、もう少し踏み込んで考えてみよう。

いっけんすると、ハイデガーは自我の存在にこだわっているように見える。すなわち、「私は存在する」ということを主張するために、世界内存在という概念を発明したように見えるが、彼はそこに留まらず、自我と対立する客観的事物の存在をもあわせて主張しようとした。これは、物自体は不可知としたカントに対する反発であるが、なぜハイデガーがこれに反発したのかということを、我々はよく考えてみなければならない。

ハイデガーによれば、哲学とは存在に関する学である。したがって、彼の不満は、カントが存在を定義することを諦めてしまったことにあると考えられる。カントは物自体が存在するとは言わなかったし、そもそも「存在」は実在的術語ではないとすら述べている。彼は存在に興味を持たなかったのだ。この意味で、カントは真正の哲学者ではなかったし、存在論と認識論の狭間で引き裂かれていたと言える。

ハイデガーは本書第7節で次のように述べる。

ロゴス〔言葉〕は、真であったり偽であったりすることができる。・・・合致というこの考えは、アレーテイア、すなわち真理という概念において、第一次的なものでは断じてない。
根源的に「真」であるのは、アイステーシス、すなわち感覚である・・・たとえば、視覚がめざすのは色なのだが、そのかぎりでは、その認知はつねに真である。
もっとも純粋な最も根源的な意味において「真」であるのは・・・純粋なノエイン、すなわち思考スルコトであり・・・このノエインは、けっして隠蔽することはできず、けっして偽であることはできず、たかだかそれは、認知しないこと・・・に、とどまりうるだけである。

この箇所において、すでに真・偽という区別は意味を失っている。彼によれば、我々の感覚はすべて真であり、その感覚がどのように引き起こされたのかということは全く意味を持たない。だがやはり、我々が何かを感覚するときには、我々の感覚器官は何らかの形で対象と接触を持っている。その接触を原因として感覚が生じ、我々はそこから知識を得ることができるのだが、この因果連関はハイデガーの考察において完全に隠蔽されてしまう。

何もないところから感覚が生じるはずはない。我々が何かを感覚するとき、たとえば我々の眼が柿の橙色を捉えるとき、そこには我々に感覚を生じさせる何らかの作用が存在するはずである。カントはそれを物自体と呼んだが、実際には、それは存在でなくともよい。我々に指定できるのは、そこに作用があるということであって、存在があるということではない。我々に認識を生じさせる過程を明らかにすることができれば、得られた知識の確実さを保証することができる。したがって認識論的な観点からすれば、物自体が存在するかどうかは些細な問題である。存在しようがしまいが、どちらでも構わないのだ。

だが、こうした曖昧な態度が後世の哲学者を憤らせ、物自体を含めた新しい存在論を提唱させてしまったことを考えれば、我々はカントの学説からさらに一歩を進めて、いかなるものも存在しないと言わねばならない。およそ何かが存在するという主張はすべて誤りであり、これは論理的に証明可能なことである。具体的な議論が知りたい方は『中論』および拙論「空の論証」を参照していただきたい。

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このように哲学者の議論を観察するとき、我々は人無我を説くだけでなく、さらに進んで法無我を説く必要性を強く感じる。むかし仏陀が諸法無我を説かれたとき、人々はそこに示された人無我の教えを理解した。その後龍樹菩薩が世に現れ、人無我に隠された法無我の真理を発見し、仏法の真理を重ねて明らかにされた。

この法無我の教えは、それ自体としては過度に難解であるように見えるが、謬見にとらわれた哲学者の心を解きほぐすためには、適切な教えであると言える。我々は哲学者たちが身にまとう、誤りに誤りを重ねて凝り固まったロゴスの鎧を、空の論理によって打ち砕かねばならない。

感覚器官と対象の接触によって感覚が生じ、感覚によって知識が生じる。我々の眼が対象を捉えることで橙色の感覚が生じ、橙色から柿の存在が知られる。ここでは柿を原因として柿の認識が生じるのであり、両者の間には明白な因果関係がある。カントはこの関係を率直に認めたが、これは凡百の哲学者にはできないことであった。ふつうの哲学者は軽率にも因果律を否定し、人間にとって唯一の知識の源泉を失ってしまうのだ。

しかし、そもそも柿が存在するとどうして言えるのか、とたずねるならば、存在するとは言えないし、言う必要もない。柿には我々に感覚を与える作用があるだけで、柿の実体が存在すると考える必要はない。

ここである人はいう、柿は炭素や水素などの原子から構成されており、原子が存在するならば、柿も存在すると言えるはずだ、と。だが、炭素も水素もそれ自体として存在するわけではなく、波動関数によって記述される作用としてのみ存在する。すなわち、物理学が記述するのは炭素の存在ではなく、その遷移確率だけである。物理学は決して対象の存在を保証しない。実のところ、量子力学が主張するのは物理的対象の空性なのである。

げん耳鼻にびぜつしんの六根が、しきしょうこう触法そくほうの六境と和合することで、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六識を生じる。上述の引用でハイデガーがノエイン、すなわち思考することを視覚と並べて論じているのは、仏説において意根と眼根が並べ論じられることと等しい。彼は思考を感覚との類比において理解し、感覚と同様の存在論的な地位を与えているが、それは仏説と通じるものである。

人間の感覚は五種類あると世間では言われるが、仏教ではこれに加えて意根を立てる。意根とは心的作用の知覚をつかさどるものであり、いうなれば、対象の認識が現れる場である。たとえば柿を見たとき、我々の眼は柿の橙色や四角い形をとらえる。これは眼根の働きである。それと同時に我々は、これは柿であると認識する。これは意根の働きである。意根の対象となる法とは柿そのものであり、これはプラトンにおけるイデアに相当する。そのものが何であるかという本質が法である。もちろんそれだけにとどまらず、我々の心的作用はすべて意根の対象となる。

たとえば、私が大事にとっておいたプリンが誰かに食べられてしまったとき、私は自分が悲しんでいることを発見する。この悲しみという感情は五感の対象とはならないが、我々はたしかにこの感情を知覚している。こうした心理状態を知覚するのも意根の働きである。

ここで注意しなければならないのは、仏教は存在論ではなく認識論だということである。我々が自分自身の心の状態を知るためには、何らかの方法でそれを認識する必要がある。認識する手段が存在しないのであれば、それについて知ることはできない。したがって、我々が我々自身の心の状態を知りうるものである以上は、それを知るための手段が存在しなければならない。こうして意根が発見される。

実際、意根を仮定しなければ説明できない事象がある。たとえば、どこからどう見ても怒っているのに、私は怒っていない、と言い張る人がいる。こういう人は、自分が怒っていることに気付いていながら、それを認めるのが恥ずかしいから怒っていないと言い張っている可能性もあるが、そうではなく、本当に自分が怒っていることに気付いていない場合もある。このように、自分自身の感情について正しい認識を持っていないことがありうるのは、それが認識されるべき対象であるからにほかならない。感覚の特徴は間違いを犯しうることであり、したがって、我々が我々自身の感情について間違いを犯しうるということは、感情を知覚する識別作用があることを意味する。それが意根である。

以上の議論から分かるとおり、意根は純粋に概念的な構成物であり、ほかの五根とは違い、身体的な基盤を持つとは限らない。ただし、私は意味ニューロンの仮説において、意根に身体的な基盤を与えることに一定程度成功したと考えている。

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我々は意根を用いて我々自身の心の状態を認識する。したがって、意根の対象であるかぎりにおいて、心理的表象と客観的対象は同じ価値を持つ。ハイデガーの存在論は心的事象から出発し、世界を解釈しようとする。一方、仏教的な認識論は、心的事象そのものを一つの認識対象に還元してしまう。

言い換えれば、ハイデガーは主客の分裂において、客観的な対象を主観の中に含めることで合理的な世界像を構築しようとした。一方、仏教的な認識論は、主観的な対象を客観的に捉えることで合理的な世界像を構築できると主張する。主観的な心理現象は意根による認識の対象にほかならず、その意味で客観的な対象と異なることはない。したがって、ノエインに特権的な地位を与える必要はまったくない。

ここで、前者は有我論、後者は無我論の立場である。すでに指摘したとおり、前者には欠陥があるが、後者に欠陥はない。ゆえに、正しいのは仏教的認識論のほうである。

では、そもそも意根の対象は存在するのだろうか。残念ながら、この問いに意味はない。なぜならば、意根の対象とは現象学の対象そのものであり、現象学の全てをそのうちに含んでいるから。何かが存在するという誤った観念も、それ自体意根の対象にほかならない。

結局、何かが存在すると考えねばならない必然性はどこにもない。何かの存在を仮定しなくとも、我々の心作用は明瞭に把握されうるのである。むしろ、存在の檻から解き放たれることで、我々は真なる知識を得ることができる。無知から争いが生まれ、真実から平和が生まれる。我々の学問は平和を実現するものでなければならない。

ここまでつらつらと批判を述べてきたが、個人的には、私はハイデガーに感謝している。彼のギリシャ哲学の講義録がなければ、アリストテレスを理解することはできなかっただろう。ハイデガーはトマス・アクィナスに比肩する古典学者であり、偉大な哲学者であった。


アリストテレス・プラトン批判(「空の論証」)

フレイザー批判(1,2

マルクス批判

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