ルソー『人間不平等起源論』を読み解く

今回は、ジャン=ジャック・ルソーの1755年の著作『人間不平等起源論』を読み解きます。

本稿では、ルソーのもう一つの主著『社会契約論』にも言及します。『社会契約論』は1762年に発表された本で、人民主権をうたい、フランス革命に影響を与えました。

参照したのは小林善彦、井上幸治訳『人間不平等起源論 社会契約論 ルソー』(中央公論新社、2005)です。

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『人間不平等起源論』は人間社会における不平等の起源について論じた書である。人間の「自然状態」に対する洞察から自然法の観念が得られ、この自然法を実践することで、自由で平等な社会が実現されると説く。

本書によれば、人間は原初において幸福であった。なぜならば、自然状態において生き残るのは心身が頑強な個体であり、彼らは一人でも生きてゆけるので、他者を必要とせず、自分自身で充足していたからである。しかし、人間の知恵や技術が発達すると、独占欲が芽生え、できるだけ多くの資源を自分のために確保するようになる。こうして貧富の格差が生じ、富める者に取り入ろうとする媚びへつらいが生じ、人間社会のあらゆる悪徳が生じた。

なぜ人間が独占欲を持つかというと、自己保存の本能があるからである。非力な人間が協力することで暮らしが楽になることは事実だが、富める者はその権威を利用して他人をこき使おうとするので、原初の平等は破壊されてしまう。さらに、権力者は富を守るために自分にとって都合のよい法を作り、不平等が恒久化される。

だが、自然が人間に与えたものは自己保存の本能だけではなかった。自然はまた、他者を憐れみ、思いやる心を人間に授けたのである。この道徳と理性の声に従い、自然の法を復活させることで、人間社会を原初の平等状態に戻すことができる。以上が『人間不平等起源論』の要約である。

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本書の議論を具体的に確認しよう。ルソーは序文で次のように述べる。

自然が作ったままの人間を見るにいたることが、どうしてできるだろうか。
人間の現在の性質のなかに最初からあったものと人為によるものとを区別し、・・・十分知ることは、取るに足らぬ仕事ではない

著者は自然と人為を厳しく区別する。悪徳とは人間が作り出したものであり、原初の自然のなかに悪は存在しない、と彼は考える。だから、自然のままの人間がどのような状態であったかが重要である。まだ知恵によって汚染されていない、純粋な人間が存在したはずだ。それが「自然状態」である。

だが、もし著者の言うとおり、自然が人間を作ったのだとすれば、人間が作ったものは間接的に自然が作ったものになる。したがって、自然と人為を厳密に区別することはできないはずである。では、なぜ彼はそれを区別できると考えているのだろうか。

それはルソー自身が、人間が自然によって作られたとは信じていないからである。彼は、人間は自然ではなく神によって作られたと信じていた。ここで彼はすでに嘘をついている。

彼は第一部で次のように述べる。

動物たちの間にあって人間をとくに区別しているのは、悟性であるよりはむしろ自由な動因という彼の特質である。自然はすべての動物に命令し、けだものは従う。人間も同じ印象を経験する。しかし彼は自分が同意するか抵抗するかは自由であると認める。そしてとくにこの自由の意識のなかに、彼の魂の霊性が現れる。

人間には自由意志があり、自然に逆らうことができる。その点で人間は他の動物から区別される。

しかし、自然が人間を作ったのだとすれば、その人間のなかに自然に逆らう力があるというのは、いったいどういうことなのか。自然は人間に対して自分に従うように命令しつつ、同時にそれに逆らうように命令したのだろうか。この問題は神学によく見られるものであり、このことからも、ルソーが自然と神を混同していたことが分かる。

ここで我々が注目すべきは「命令」という言葉である。ルソーは自然を神と同一視しているので、それが人間に命令するものだと思い込んでいる。だが、自然は人間に命令しない。ここで彼が言いたいのは、動物は苦痛から逃れることを求める、そしてその苦痛は自然が彼らに与えたものだ、ということである。これを命令と解釈することに思考の歪みがあり、文化的な偏見がある。

苦痛という感覚に対して、それにどう対処するかという判断が行われ、実際に何らかの行為がなされる。この種の意志決定は人間だけでなく動物にも存在するものであり、したがって人間を特別扱いすることはできない。ルソーが見落としているのは、感覚と行為の間に意志が存在するという事実である。これを無視して、感覚と行為が直接つながっていると考えると、感覚が我々に命令する、という解釈が生まれる。これが「命令」という言葉の意味である。

以上の考察によって、彼が人間社会の基礎に法を見出す理由も理解される。彼は次のように述べる。

自然人が受け入れた法・・・われわれがこの法についてはっきりと認めうることは、単にそれが法であるためには、それによって強制を受ける人の意志が、十分心得たうえでその法に服従しなければならないというだけでなく、それが自然であるためには、その法が自然の声によってじかに語りかけるものでなければならない、ということである。

この記述から分かることは、法は人間に命令するものだ、と彼が理解していることである。人間は自分の意志によって自分の行動を決定することはできず、たえず自然や法から命令を受け、それに服従することしかできない。ここで彼が「法」と呼んでいるのは法律よりも広い概念であり、人間に何らかの命令を行うもの、人間がそれに従って行動するルールを法と呼んでいるようである。「法」とは自然人が自らの意志で選び取ったものであり、自然の命令とは異なるものだ。

ここにはねじれがある。なぜなら、自然人が法の根拠とするものは「自然の声」にほかならないからである。この自然の声とは、次のようなものである。

人間の魂の最初の、そして最も単純な働きについて考察すると、わたしはそこに理性にさきだつ二つの原理が認められるように思う。一つは、われわれの安楽と自己保存とに熱心な関心を与えるものであり、もう一つは、およそ感性的な存在、主としてわれわれの同胞が、滅び、または苦しむのを見ることに対して、自然の嫌悪をわれわれに起こさせるものである。

ここに挙げられた二つの原理のうち、前者はさきほど確認した自然の命令であるが、後者は自然の命令に反するものであるように思われる。しかし、これは自由意志とも異なる。なぜなら、意志ではなく原理とされているからである。したがって、これも一種の命令であり、自然が我々に命じるものだということになる。

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ルソーの考えでは、すべての生き物は何らかの命令に従っている。動物は自然に従い、人間は法に従う。自然に逆らった人間は、みずからが従うものとして法を作り出した。したがって、すべての法は人為的なものであるはずだが、原初の法は自然が命じるものだった、と彼は述べる。

なぜ自然が法の根拠でなければならないかというと、自然は善であり、人為は悪だからである。ゆえに、善なる法がありうるとすれば、それは自然に根拠づけられた法でなければならない。ここに自然法という概念が必要とされるのであるが、これはそもそも矛盾した概念である。自然とは異なる命令を行うものが法であるのに、その法が自然によって根拠づけられるはずはない。

ここにルソーの矛盾があり、同時に、彼の議論が神学の一種であることが露呈されている。自然には善悪二つの側面があり、悪の声に従うことで人間は堕落する。一方、善の声に従うことで人間の精神は向上し、原初の幸せな状態に戻ることができる。単純な二元論である。

自然法という概念は矛盾している。法も自然も我々に服従を迫るが、法が人為的なものであるのに対して、自然は人為ではない。したがって、「自然法」という言葉は「自然な人為」と言っているようなもので、全く意味をなさないことになる。

なぜこのような混乱が起きてしまうのかというと、人間の意志を無視しているからである。自由意志という言葉は人間の意志の存在を認めているようでいて、実際には意志の存在を否定する言葉である。自然法の矛盾は、人間が何らかの命令に従う存在だと規定することから生じるものであり、人間が自分の意志で行動しうることを認めれば、この問題は消えてなくなる。法による命令と自然による命令の二者択一を仮定するから、人間の意志に行き場がなくなって、自由意志という無限小の存在しか認められなくなってしまうのだ。

我々はここに法治主義の欠陥を見る。人間が何らかの命令に従わざるをえない存在だとするならば、法を作る人間は誰の命令に従っているのか。ヨーロッパ人はこの問題に答えるために自然法という概念を発明したが、これは何の解決にもなっていない。というのも、法とは人間社会を自然状態よりもよいものにするために必要とされるものだが、その法が自然によって与えられるのならば、法を作る意味がなくなるからである。ここに根本的な矛盾があり、ルソーは終始この矛盾の中でもがき続けている。

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ルソーは人間の中に二つの原理がある、すなわち二つの自然の声があると述べた。一つは利己心であり、もう一つは利他心である。このうち前者が人間社会にもたらしたものが実定法であり、これは権力者の利益を保証するために、国民の利益を棄損するものだとされている。この実定法が人間社会に不平等をもたらす。これに対して、後者から導かれるものが自然法であり、これは自然状態における人間の平等を回復するものである。

ここから分かることは、実定法も自然の声から導かれる限りで自然法であるということだ。ルソーははじめから人間の本性を善と悪の二つに分け、前者を自然と呼び、後者を腐敗と呼ぶ。この区別は完全に恣意的なものであり、すべては出来レースにすぎない。このような稚拙な論理によって道徳を実現できると考えること自体があまりにも愚かなことであり、こうした欺瞞はかえって不道徳を助長することにしかならない。

ヨーロッパ人は人間が意志を持つことを知らず、人間が心を持つことを知らない。彼らが知っているのは感覚的な表象と客観的事物との区別だけであり、感覚と事物の間にある無数の過程については無知同然である。客観的事物が我々の感覚に作用するときに働く因果律や、我々が感覚から概念を抽出し、さらに推論を行って意志を決定する作用など、あらゆることが彼らの眼には見えていない。彼らが見ているのは、眼前のスクリーンに映る感覚的表象だけである。

彼らは人間の心に因果作用があることを知らない。感覚が概念を生み、そこから推論が行われる過程は、すべて因果律に基づいて行われるのである。人間の心から一切のプロセスを排除し、感覚表象が人間を動かすという極めて単純な構図を仮定するために、精神の構造を理解することができなくなってしまう。人間の理性は因果関係を認識することからのみ生じるが、ヨーロッパ人は因果律を否定し、理性そのものを否定する。その結果、我々の世界に限りない混乱がもたらされたのである。

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以上で、『不平等起源論』が善悪二元論に基づいていることが分かった。次に、『社会契約論』の内容を確認しよう。社会契約論は民主主義を基礎づける理論であるが、その欠点をはじめに指摘したい。

民主主義の最大の特徴はその排他性にある。社会契約によって作られた国家は、契約を行った国民の福祉のために存在し、その福祉に貢献する限りにおいて、他国民を搾取する権利を持つ。これが社会契約に暗々裏に含まれる原理である。この原理が最大限に発揮されたのが19世紀から20世紀にかけての植民地時代であり、なかでも最大の植民地を保有したイギリス帝国は、古くから議会政治を行っていたことで知られている。

これを裏付けるのは、『社会契約論』第一篇第六章の次の記述である。

共同体の力をあげて、各構成員の身体と財産を防禦し、保護する結合形態を発見すること。・・・これこそ社会契約の解決する基本問題である。

ここには、共同体の外にある人々をどう扱うべきか、という問題意識が欠如している。イギリス政府はイギリス国民の身体と財産を防禦するために、あくなき膨張の道を辿った。そのさい彼らは植民地人の利益を尊重しようとしなかった。なぜならば、イギリス政府は植民地人と契約を結んだわけではなかったからである。ここで我々は、社会契約を結ぶのはいったい誰なのか、という問題につきあたる。

この問題について考えるとき、我々は次の事実に気づかざるをえない。ルソーは国家の成り立ちについて考察するふりをしながら、そのじつ国家の存在を前提として議論をしていたのだ。同書第一篇第五章には次のような記述がある。

事実、先行する合意がない場合、選挙が全員一致でないとすれば、少数者にとって多数者の選択に従う義務がどこにあろうか。・・・多数決の法も合意によって成立したもので、すくなくとも一回だけは全員の一致を前提にしている。

社会契約の前提となるのは、国家の構成員が全員一致で契約に合意したという事実である。しかし、このような合意が現実に行われたことは一度もなく、この合意はあくまでも想像上のものでしかない。したがって、契約を結んだ市民が具体的に誰であるかということは、完全に恣意的に決定されることになり、実際には、その構成員は現に存在する国家に基づいて決定されるのである。ゆえに、社会契約説には新しい社会を作り出す力はなく、むしろ、古くからある社会にもう一つ別の正当性を付け加えるにすぎない。そしてその正当性たるや、まさに法外なものであった。

社会契約によって生まれたのは、人類史上かつてない規模の悪徳であった。イギリス人が中国やインドに対してどれほどの罪を犯したか知らぬ者はいない。歴史上、民主国家が諸外国に対して犯した罪は、人類の罪の総量の半分以上を占めるだろう。その罪に免罪符を与えたのが他ならぬルソーであるから、彼はヒトラーよりもはるかに重い罪を犯したと言わねばならない。

ルソーの著作を読んで、私が最も奇異に思うのは、彼が戦争を否定しないことである。彼は明らかに国家の交戦権を認めている。道徳について語る人が、どうして殺人を正当化しうるのだろうか。人間が道徳的であるためには、戦争をなくすことが必要不可欠なのではないか。

ルソーはやはり、道徳という言葉の意味を全く理解していない。人間が道徳的に生きるために最も必要な条件を見逃しているのだ。我々が追求すべきは、国民の利益を守るために戦争を行う国家ではなく、そもそも戦争の必要性をなくす国家である。それはその定義上、地球上のすべての人間を構成員として認めるものでなければならない。というのも、戦争が起きるのは二つ以上の国家が地上に存在する場合であり、地上に一つの国家しか存在しなければ、戦争が起きる可能性はないからである。

ルソーが描いた理想国家は理想でもなんでもなく、ただの悪である。我々が追求すべき理想はそのような低俗なものではなく、真の平和を実現するものでなければならない。

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『社会契約論』をもう少し詳しく見てゆこう。ルソーは本書第一篇第六章、第七章で次のように述べる。

各構成員は、自己をそのあらゆる権利とともに共同体全体に譲り渡す・・・それはなぜかというと、まず第一に各人はいっさいを譲り渡すので、万人にとって条件は平等となるからであり、・・・最後に、各人はすべての人に自己を譲り渡すから、特定のだれにも自己を譲り渡さないことになる。
この社会契約の形式から、次のことがわかる。・・・各個人はいわば自分自身と契約している

第二編第四章には次のような記述がある。

われわれを社会体に結合する義務は、双務的であるために、強制力をもつにすぎない。・・・なにゆえ一般意志は常に正しく、なにゆえあらゆる人々は常に各人の幸福を願うのであろうか。それは《各人》ということばを自分のことと考えないものはなく、またあらゆる人々のために投票しながら、自分のことを考えないものはいないためではないか。

社会契約において、個人は社会全体と一体化する。それは自己の権利を共同体に譲り渡すことで実現されるのである。自他の区別はなくなり、各人はつねに全体の利益のために行動することになる。『三銃士』に出てくる「one for all, all for one」の精神である。

じつに美しい理想が謳われているが、同時に極めて不合理である。そもそも権利というものが存在するならば、それを譲り渡すこともできるだろうが、そのようなものが存在しないならば、それを譲り渡すこともできないだろう。

我々はさきに『人間不平等起源論』において、自然が人間に命令する、という記述に出会った。「権利」という言葉を理解するには、この「命令」という言葉が鍵になる。簡単にいえば、権利とは服従のことである。自己の権利を共同体に預けるということは、共同体の命令に服従するという意味である。ここには「命令―服従」の関係があり、そのかぎりで人間の意志が問題にされる。自由意志とは服従する意志であった。そのように、人間が常に何かに服従する存在であるとするならば、権利の譲渡ということもありうるだろうが、人間に自発的な意志があることを認めるならば、どのような権利の譲渡も存在しえないことになる。

ルソーがここで記述しているのは、相互に服従する人間集団であり、これだけでは羊の群れと変わりがない。そこで、この羊の群れを導く指導者が必要とされる。それが立法者である。第二編第六章および第七章で彼は次のように述べる。

個々人は利益がわかってもこれを排斥し、公衆は利益を望んでも、それがわからない。両者とも等しく指導を必要としている。・・・これが立法者を必要とする理由である。
立法という作業には両立しがたい二つのものが同時に見出される。まず人力をこえた計画、次いでそれを遂行するための無にひとしい権威である。

社会契約によって作られた共同体は、立法者の定めた法によって統治されることになる。ここで立法者は、執政権を持たない一人の市民でなければならない。なぜ彼が執政者であってはいけないかというと、「法は彼の情熱を遂行するものとして、彼の不正を永続させるのみ」だからである。

ここにはルソー特有の人間不信が顔を出している。たとえば第二編第十二章では、

各市民は他の全市民から完全に独立し、都市国家に対しては依存しすぎるほど依存するようにしなければならない。・・・なぜならば、構成員の自由をつくるものは、国家の力だけだからである。

と述べ、また第三篇第六章では、

いかなる良王といえども、その気になれば、君主たる地位を失わないままで、悪しき国王たりうることを望んでいる。・・・彼らの個人的利益は、まず第一に、人民が力弱く、貧困に苦しみ、とうてい彼らに反抗しえないということである。

と述べる。人間はみな不正を犯すものであり、だからこそ、その権利を共同体に譲渡せねばならない。そして、その共同体の公正さは、立法者の定めた神聖な法によって保証されるのである。

この崇高な理性は世俗的人間の理解力を超えたものである・・・いまなお存続しているユダヤ法、十世紀この方、世界のなかばを支配するイスマイルの子(マホメット)の法は、これらの法を制定した偉人を今日なお物語っている。

ここまでくると、社会契約論は王権神授説と何も変わらないように見える。王権神授説の述べるところによれば、国王の力は神から与えられた神聖なものであり、それゆえ人民を統治する権利がある。一方ルソーは、自然の声に従って定められた、自然法による統治のみが正当なものだと主張する。ここで「自然」を「神」に置き換えれば、両者の主張は寸分たがわず一致する。

ただ、これは少しうがった見方で、ルソーの議論の本質は、各人が自己の権利を全体に譲り渡すことにある。これによって個人は全体と一致し、自己の利益について考えることが、すなわち全体の利益について考えることになる。ここで彼の言わんとすることは分からないでもないのだが、やはり意味不明である。個人はどこまでいっても個人であって、全体と一致することはありえないだろう。

ルソーの言うことは、各個人が自己の幻想の中で全体と一致し、その幻想を現実世界に反映させるべきだ、という意味にしか理解できないのではないか。もちろん私にも彼の言わんとすることは理解できるし、それはつまり、すべての人間が他者の利益を尊重しなければならない、ということなのだと思うが、なぜそれが共同体との契約によって実現されるのかが分からない。上述の「命令ー服従」関係に基づけば、平等を命じる法に従う人間集団が、このような理想を満たすものになりうることは認めるが、その場合、その法を誰が定めるのかという別の問題が生じる。その法が自然の声によって定められるとするならば、そもそもなぜ社会が必要なのか。自然のままでよいことになりはしないか。ここまでの議論にいったい何の意味があったのか。

7

こんなくどくどしい議論を行うかわりに、ルソーはこう言えばよかったのだ。「己の欲せざる所を人に施すこと勿れ」と。これがすべてであり、ルソーの全思考をはるかに越えた価値がこの言葉にはある。政治とは教育であり、それ以上でも以下でもない。

我々は、自分の意志に基づいて他者のために行動する人間の存在を認め、そのような人間を教育によって作りうることを認めればよい。その方法を孔子が説き、孟子が説いたのだ。これを認めさえすれば、社会契約は必要なくなる。人間は意志を持つ存在である。人間は善い意志を持つことができ、善い意志を持った人間が集まれば、善い社会ができる。ゆえに、我々は善い人間を作るための教育を必要とする。すべてはこの一点に集約される。

もちろん我々はここで、善とは何であり、どのように教育を行うべきかという議論をする必要があるかもしれない。ただ、肝心なことはすでに古典によって明らかにされているので、それほど心配する必要はない。我々はただ古典を学べばよいのだ。

ルソーもまた教育の価値を認めている。たとえば第二編第十二章では、世論の形成こそ国家にとって最も重要だと述べている。

これこそ真の国家の基本構造をなすもので、・・・知らず知らずのうちに権威の力に慣習の力を置き換えるものである。私の述べているのは風俗、習慣、とくに世論のことである。・・・習慣こそ形成されるのは緩慢であるが、結局、ゆるぎない要石をなすのである。

曖昧な記述ではあるが、これは市民を教育し、よい習慣を身につけさせることが国家にとって重要な事業だと述べているのである。一方で、彼は次のようにも述べる。

帝王教育が、これを受けるものを必然的に腐敗させるとすれば、支配することを教えられて育った一連の人間から、何を期待したらよいのだろうか。

これは第三篇第六章の君主制について論じた箇所であるが、ここで著者は、君主に対する教育が何の効果ももたらさないものだと決めつけている。一方では教育の価値を認め、他方では教育の価値を否定する。こうした矛盾を偏見の所産と言わずして、何と言えばよいのだろうか。まえに引用した箇所からも明らかなように、ルソーは君主制に対して根拠のない偏見を抱いており、これがヨーロッパ諸国によるアジア支配を正当化してしまったことは間違いないと思われる。

教育によってしか正しい国家を実現できないのだとすれば、君主に対して適切な教育を行うことによって、正しい政治を実現することは可能なはずである。国民すべてを教育することに比べて、君主一人を教育するほうがコストは小さいから、君主制のほうが優れた制度である、という見方も成り立つ。人間の意志と教育の価値を認めるならば、君主制をおいそれと否定することはできないはずである。ただ、ルソーの育ったヨーロッパには正しい教育が存在しなかったというだけで、それによって教育の価値が貶められるべきではない。

ヨーロッパの人々には、自分自身を簡単に他のものに譲り渡してしまう性質がある。彼らの心はあまりにも弱いので、常に何かの束縛を受けていないと気が済まないのだ。これは同時に、彼らが人に命令することを好むことを意味する。そこでルソーは、自分が誰かに命令してしまうことがないように、そして、自分が誰からも命令されることがないように、構成員のそれぞれが相互に自分を譲り渡す社会契約を思いついた。

自分の行為は他者によって縛られ、他者の行為も自分によって縛られる。これでみなが平等になる。かつては神が彼らを縛ってくれたのだが、誰も神を信じないようになると、彼らは互いに相手を縛りあうようになった。これが正常な人間関係だとはとても思えない。ヨーロッパ人は人間関係を「命令―服従」関係として理解し、その関係から脱け出すために、自分で自分を支配する社会契約を必要としたのだ。

彼らは自由をはき違えている。道徳的な行為は己の意志によって選び取らねばならない。他者に強制される道徳は、もはや道徳の本質を失っている。社会契約は他律的な自由であり、真の自由ではない。そこでは、他者への思いやりは他者への服従によって実現されるが、自分の判断を他人に預けることは必ず意志の不在を生む。我々は他者の利益を慮らねばならない。だが社会契約においては、その他者は契約者、すなわち同国人に限られるのだ。

自由とは善である。善を行う意志が自由である。そこに制限が設けられてはいけない。善を行うべき相手と、行わなくてもよい相手を区別したとき、善は善でなくなる。人間は自由でなくなる。それが堕落の始まりである。

西洋人は社会契約に基づく法制度によって正義を実現できると信じてきた。しかし、人間の心の弱さを社会制度によって補おうとする試みは必ず失敗する。なぜならば、社会を維持するのは人間の心に他ならないからである。健全な社会を維持するためには、その構成員が健全な心を持つ必要があり、したがって、どうすれば自分自身がよい人間でありうるか、どうすればよい人間を育てることができるか、ということが究極の課題となる。あらゆる社会学・政治学は最終的にこの点に帰着する。東アジアの伝統的な学問は、すべてこの課題を解決するために発達してきたのだ。

三界はただ心のみ。心こそすべてである。


イギリスによるアジア支配とその結末については、『亜米利加物語』「第三部 ビルマ篇」を参照してください。

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