ジョン・ロックの『統治論』は1689年に公刊された。本書は前後編に分かれており、『統治二論』と呼ばれることもある。前半部は王権神授説の批判に当てられ、後半で社会契約の理論が展開される。本稿では主に後篇を批判的に読解する。
今回参照したのは伊藤宏之訳『改訂版 全訳統治論』(八朔社、2020)である。
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我々日本国民は人権を持っていない。なぜならば、我々は社会契約に基づき人権を国家に委ねているからである。そして、国家に奪われた人権を自分のもとに取り戻すために、選挙への投票が必要になる。我々は投票行動によってはじめて自分の人権にアクセスできる。したがって、もしも投票を行わないならば、あなたの人権はあなた以外の第三者の手に委ねられることになる。そうなることを避けるために、我々は絶えず選挙に参加し、国家から人権を取り戻す戦いを続けねばならない。
人権は奪われるために存在する。我々は社会契約によって自分の人権を国家に預ける。それによって、国家が我々の代わりに我々の人権を管理するようになる。人権はそれが認識されたとたんに奪われる運命にあるのだ。
人権という概念が必要とされるのは、国家による支配を正当化するためである。ロックによれば、人間は自然状態において完全に自由であり、自己の判断で自然法を執行する権利を持っている。そこには自然法に基づいて他人を裁く権利や、略奪者に対して戦争を行う権利も含まれる。
すべての人が他の人の権利を侵害したり、相互に危害を加えたりすることのないように、そして、平和と全人類の保存とを欲する自然法が守られるように、自然状態においては、自然法の執行は各人の手に委ねられ、この法を侵す者を、その侵害を抑制する程度に処罰する権利を各人が持っている。
『統治論』後篇第2章第7節
しかし、社会状態においてこれらの権利は放棄される。個々人は自然状態において有していた裁判権や交戦権を放棄し、これを国家に委ねなければならない。個人はあらゆる権利を奪われ、国家が彼らを支配することになる。
政治社会は、それ自体のうちに所有権を保全しそのためにその社会の人々のすべての犯罪を処罰する権力を持たなければ存在することも存続することもできないのだから、政治社会が存在するのは、その全成員がこの自然な権力を放棄し、すべての人がそこで作られる法の保護に訴えることができるかぎり共同体の手にこれを委ねる、という場合のみである。
『統治論』後篇第7章第87節
社会契約は同時に、個人が国家の主権者であることを保障する。民主国家は国民の同意によって成立するものであるから、国民の意志が政治に反映されねばならない。それを実現する仕組みが投票であり、投票行動を通して我々は国家の主権者として振舞うことができる。しかし、もしも国民が投票に参加しないならば、彼らは国家に白紙の委任状を渡していることになるから、これは独裁の誕生を意味することになる。
なんという倒錯だろうか。そもそも社会契約によって自分の権利を他者に譲り渡すことをしなければ、何の問題も起きないはずである。それを国家に委ねた後で、それを取り戻す試みを続けねばならないというのは、自分で自分を苦しめているようなもので、まったく不毛な話である。
社会契約説の最大の問題点は、誰もそんな契約を行っていないということだ。私は国家とそんな契約を行った記憶はないが、いつの間にか社会契約を結んだことにされている。私が社会契約を行うことは、私が生まれる前から決定されているのである。こんな不合理なことがあるだろうか。
そして、もしも私が社会契約を拒否するならば、私は自然状態の烙印を押され、国家から宣戦を突きつけられるかもしれない。これはアメリカのインディアンがたどった道である。彼らは入植者と社会契約を結ぶことを許されず、あるいは彼ら自身がそれを拒否したため、自然状態にあるとみなされ、北米の国家権力から過酷な迫害を受けた。人々が市民社会を設立する唯一の目的は「市民社会の中での安全と保障」(後篇第7章)であり、国家はこれを脅かすものを排除する権利を有している。なぜならば、すべての人間は自然状態において略奪者と戦う権利を持っており、国家はそれを代行しているにすぎないからである。ゆえに、入植者の安全を脅かすインディアンの殺害は合法とされる。
なぜ西洋人はこれほど暴力的なのだろうか。じつのところ、社会契約説はすべて被害妄想の産物である。彼らは自分の財産を奪われることを異様に恐れている。本書後篇第3章でロックは次のように述べる。
もし泥棒が貨幣やそのほか何でも好きなものを奪い取るために、暴力を用いてある人を捕えるならば、その人を少しも傷つけず、あるいは殺そうという意図を表さなくとも、その泥棒を殺すことは合法的である。当然の権利がないにもかかわらず、暴力を用いて私を抑えつける者は、口でどんなことを言おうと、私の自由を奪い抑えつけてしまえば何を盗るかわからないからである。そこで、私が相手を戦争状態に入った者として扱うこと、つまり、できれば相手を殺してもよいということが合法的となる。戦争状態を作り出し、先に攻撃をしかけた者は誰でも、当然、殺されるという危険に身を晒すことになるのだからである。
『統治論』後篇第3章第18節
その人を少しも傷つけず、殺そうという意図を持っていないのであれば、その泥棒を殺すのはちょっとやりすぎだろう。泥棒にも泥棒の事情はあるだろうに、ロックの議論は行き過ぎているように思う。
2023年12月現在、パレスチナではイスラエル軍によるガザ進攻が継続中である。ここでのイスラエルの論理はロックと同様であり、人間には、自分から何かを奪おうとする意図を持つ者を殺す権利があるというものである。実際には、ハマスにはイスラエルから何かを奪う能力はほとんどなく、イスラエルの民間人1000人を殺害した今回の事件は、本来の能力をはるかに越えた成功であったと言わざるをえない。したがって、イスラエル軍の行為は明らかに過剰防衛であり、彼らがガザの住民を1000人殺すまでは報復という言い訳が成り立つが、それ以上の殺害は犯罪とみなされるべきである。
社会契約説の本質は、法に縛られない自然状態の存在を認めることにあり、そうした自然状態にある人間に対しては、無制限の闘争が許されるという教説にある。そして、ロックによれば国家間の関係はつねに自然状態であるから、今回のイスラエルの行為は正当化されることになる。「世界中の独立した共同体の君主や支配者はすべて自然状態にある」(後篇第2章)。
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では、そもそも自然状態とは何であるのか。なぜ人間は自然状態において自由であり、戦争の権利を有しているのか。ありがたいことに、ロックはこの問題に明確に答えている。
自然状態はまた、平等の状態でもあり、そこではすべての権力と裁判権は相互的であり、他の人よりもより以上のそれらを持っていない。なぜなら、同一種、同一等級の被造物はすべて同等に自然の恵みを受け、前述の機能を利用するように生まれついているのだから、あらゆる被造物の主であり支配者である神がその意志を明白に表示して、ある人を他の人の上に据え、はっきりした命令によって疑うことのできない領有権と主権を与えるのでないかぎり、すべての人は相互に平等であるべきで従属や服従はありえないということは、何よりも明白であるからである。
『統治論』後篇第2章第4節
平等とは、ある人が他の誰かに服従することがないということである。したがって、自由と平等は同じ意味である。そして、なぜ人間が平等であるかというと、神が人間を平等に作ったからである。これが平等という概念の起源である。
ルソーは不誠実にも平等という言葉の起源を隠そうとしたが、ロックは「神が人間を平等に作った」と明確に述べている。本稿では触れないが、『統治論』の前編は王権神授説の批判に当てられており、そこでは、神が特定の人間に他の人間を支配する権利を与えたとは考えられないということが、くどくどと説明されている。ロックは、人間が平等であることを主張するために神の存在に頼らざるをえなかったのであり、このことが社会契約説の起源を我々に教えてくれる。王権神授説と社会契約説は、議論の重点が執政権から立法権に移っただけで、国家権力の源泉を神に求める点で完全に一致している。
自然法とは自然状態において人間が従うべき法であり、この法は神が作ったものである。なぜならば、神が人間を創造したからである。その後、人間は自分の力で成長して社会を作るようになり、自然状態から抜け出した。しかし社会状態における法は、自然状態における人間の権利を実現するように作られねばならない。そのためやはり、自然状態をどう理解するかということが本質的な重要性を持つことになる。ここにはルソーに見られたのと同じ倒錯が顔を出している。神が自然法を作ったのであれば、自然のままでいるほうがよいのではないか、と。
しかし、すでに見てきたとおり、社会契約説は国家による支配を正当化するための道具にすぎない。したがって、自然法をどう解釈するかということは、自説に都合がいいように適当に考えればよいことになる。神が人間をどう作ったのかは知りようのないことなので、好き勝手なことが言える。また、神が存在するという客観的な証拠もない。つまり、社会契約説は単なる空想であり、我々はそこにいかなる合理性も認めることはできない。
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もちろん、社会契約説を盲目的に信じる人々は、この程度の説明では納得しないだろう。我々は権利という概念をさらに詳しく批判する必要がある。ロックは本書後篇第5章で所有権について次のように論じる。
すべての人が自分自身の身体に対しては所有権を持っている。・・・彼の身体の労働とその手の働きは、まさしく彼のものと言ってよい。そこで、自然が与えそのままにしておいた状態から彼が取り出したものは何であっても、彼はそこで労働をそれに加え彼自身のものをつけ加えて、それへの彼の所有権が発生するのである。そのものは自然のままの状態から彼によって取り出されたものであるから、この労働によって他の人の共有権を排除する何かがつけ加えられたことになる。この労働は疑いもなく労働した人の所有権なのであるから、少なくとも共有物として他の人にも充分なものが同じように残されている場合には、いったん労働をつけ加えたものにはその本人以外の何人も権利を持つことはできない。
『統治論』後篇第5章第27節
ある人の身体はその人の所有物であり、彼は自分の身体に対する所有権を持っている。彼の労働によって自然の中から何かが取り出された場合、彼の身体の働きに基づいて、そのものへの所有権が発生する。
ロックは暗黙の前提として、個人とその身体が別のものであるとみなしている。すなわち、身体とは別に何らか魂のようなものが存在し、それが彼の身体を所有し、身体の所有権を持つのだ。
ここで我々は、権利という概念の奇妙さに気付く。なぜロックは、魂が身体を所有すると言わずに、魂が身体の所有権を持つと言うのか。魂が存在するかどうかという議論はひとまず措く。問題は、所有権とは何か、権利とは何かということである。
たとえば、ある人が森のなかからどんぐりを拾ってきた場合、彼はどんぐりを「持っている」だけである。しかし彼が、私は自分の労働によってどんぐりを拾ってきたから、このどんぐりは私が自由に使ってよいのだ、と主張した場合、ロックにしたがえば、彼のどんぐりに対する所有権が発生する。
いったい所有権はどこに発生するのか。彼がどんぐりを拾ったとき、どんぐりにも彼にも何の変化も起きない。ただ、どんぐりが地面から持ち上げられるだけである。どんぐりにも彼にも何の変化も生じないのだとすれば、そこに所有権が発生したとは言えない。ゆえに、もしも所有権なるものがどこかに生じたのだとすれば、それはどんぐりと彼以外のどこか別のところに生じたことになるが、それではつじつまがあわない。つまり、所有権は現実には存在しないものである。
仮に、彼がどんぐりを持っているということとは別に、どんぐりの所有権というものを同時に持っているとするならば、そのどんぐりが彼の所有物であるということに関して、なぜ疑問が持たれうるのだろうか。ロックは、彼がどんぐりへの所有権を持つことを論証しようと試みているが、本当に所有権なるものが存在するのであれば、論証する必要はないはずである。というのも、ロックは「彼がどんぐりを持っている」ことを論証しようとはしない。どんぐりを手に持っている人がいれば、その人がどんぐりを持っていることはすぐにわかるからである。我々は彼がどんぐりを持っている姿を眼によってとらえ、それを認識することができる。だから「彼がどんぐりを持っている」ことは単なる事実であって、論証の必要はない。しかし、「彼がどんぐりへの所有権を持っている」ことは、どんな方法によっても認識されることがない。そのような認識されないものの存在を証明しようとするから論証が必要になるのであって、しかも、その論証には直接的な根拠がない。そもそもロックは所有権という言葉が何を意味するかを明示していないのである。彼がどんぐりを持っているという事実以外に、彼がどんぐりへの所有権を持っているという認識されえない事実が存在するということが、どういう事態を指示しているのかを明らかにしていない。
それでも我々は、ロックの言わんとすることを理解することはできる。彼が権利という言葉で指示しているのは、係争関係にある他者を納得させられるかどうかである。ある人が彼のどんぐりを奪おうとした場合に、それが彼のものであると説得することができたとき、彼に所有権があると認められることになる。したがって、ロックがここで行っていることは、所有権の起源を説明することではなく、所有権の定義を示すことである。すなわち、このような形で所有の正当性を定義しましょう、という提案を行っているだけであり、それに同意するかどうかは提案された側が決めるべきことである。というのも、ロック自身が述べている通り、共有物として残されているものが十分少ない場合には、彼の定義は正当性を失うから。
以上の議論によって、我々は、ロックが自然法と呼ぶものが彼の恣意的な提案にすぎず、認識論的な根拠を持たないことを理解する。認識されないものの存在を主張することは西洋人の陥りがちな誤謬であり(ハイデガー読解を参照)、こういう方法で行われた議論には個人の独断が入り込むことを防ぐことはできない。
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権利とは人を従わせる力である。ある人があるものに対する所有権を持っているということは、彼の手からそれを奪おうとする人をしりぞけ、自分の意志を相手に押し付ける力があるということである。ロックはその力の源泉を神に求めたが、彼の議論には根拠が欠けている。
そのような力が本当に存在するのであれば、それについて議論をする必要はない。もしも権利というものが本当に存在するのであれば、それを行使するだけで彼の権利は守られるはずであり、権利を守るための対策を講じる必要はない。実際には権利というものはどこにも存在せず、ただ彼の意志を通すために暴力を振るうさいに、それを正当化するための言い訳が欲しかっただけである。
ロックの議論の核心は、ある人の所有物を奪おうとする人がいたら、彼はその略奪者を殺してよい、とするところにある。これが権利という概念のもっとも直接的な表現である。暴力によって自己の意志を押し通すときに、その暴力を免罪してくれるものが権利である。人間を殺すことは罪であるが、自分の権利を守るためであるならば、それは罪ではなくなる。なぜならば、自然法によって定められた権利は、神が人間に与えたものだからである。神に従うことは善であるから、権利を守るために人を殺すことは善である。
結局のところ、ロックは神や自然という概念を用いて殺人を正当化しようとしているにすぎない。というのも、ほんとうは神などいないからだ。たとえ神がいたとしても、聖書にはロックが『統治論』で述べた内容は少しも含まれていない。彼はただ神を引き合いに出して、自分の勝手な主張を権威づけようとしただけだ。
ここで「正当化」と「免罪」は同じ意味である。罪を罪でないと主張する場合に正当化という言葉が使われる。ロックが言いたかったことは、権利を守るための犯罪は正当化される、すなわち免罪されるということである。
権利という概念はまた、人間の支配を根拠づけるものである。もしも権利というものが存在するのなら、我々は、我々が持っているどんぐりを他者に預けることができるように、ちょうどそのように、我々が持っている権利をも他者に預けることができるだろう。そこではじめて、権利を譲り渡された側が、権利を譲った側を支配するという関係が成立する。権利を譲り渡した側は、自己の正当性を主張することができず、相手の言うことに逆らうことができなくなる。それが支配ということである。これによって社会契約の準備が整う。
社会契約とは、自分の権利を他者に委ねることであり、全人権を共同体に譲り渡すことである。それはその人が共同体の支配に服するということであるが、同時に、主権者として共同体を支配する側に立つということでもある。この文の前半は常に正しいが、後半には疑問符をつけざるをえない。というのも、我々が主権者たりうるのは選挙を通してのみであるが、実際に行われる選挙はつねに不完全なものであるから。
人間には神から与えられた権利がある。その権利はただちに国家に回収され、我々は選挙を通してしか自分の権利にアクセスできない。しかし、間接選挙はそもそも制度として不十分なものであり、また、少数派の意見は無視されざるをえない。こうして選挙は形骸化され、国民は国家に人権を吸い取られるだけの存在と化す。
民主主義は現代の奴隷制である。人々は自分が誰の奴隷であるかもわからないまま、無名の人間に自分の権利を譲り渡している。その権利は簡単に国家によって悪用されるだろう。
基本的人権は否定されねばならない。なぜならば、そこには敵を殺す権利が含まれるからである。人権は平和の敵である。