勝者は誰か

真珠湾について書いていたら、終戦についても書きたくなった。このblogでは何度も触れた話題だが、改めて考える。

私は、太平洋戦争は軍事的に日本の勝利だったと主張する。その理由をこれから説明したい。

理由1:戦略爆撃

1945年3月10日、300機のB29が東京に襲来し、江東地区を爆撃した。この攻撃によって26万戸の家屋が焼失し、死者数は8万名を超えた。この日を境にアメリカ軍の無差別爆撃は本格化し、以降は名古屋、大阪と日本各地の大都市が標的にされた。

アメリカは下町をねらった。3月10日の空襲は東京の山手方面ではなく、浅草や本所・深川などの下町が攻撃対象となった。これらの地域は人口密度が高く、爆撃の効果が大きいと考えられたためであったが、もう一つ重要な要素があった。町工場である。東京の下町には軍需品を生産する家内制工場が多数存在しており、これを破壊することがアメリカ軍の目標であった。

じつは戦略爆撃が本格化する以前にも、アメリカ軍は日本への空襲を繰り返していた。それは大都市圏を標的とするものではなく、飛行機工場や兵器工廠を対象とした精密爆撃であった。日本軍の兵器生産拠点を破壊することで、戦力を低下させようとしたのである。

ところが、この方法は成果が上がらず、主要飛行機工場の生産を5%程度低下させるにとどまった。そもそも、ピンポイントで工場に爆弾を命中させることが難しかったのに加えて、日本の産業構造がアメリカと異なり、家内制工業の占める割合が大きいことも一因だった。日本の軍需産業の中心は郊外にある大規模な工場ではなく、下町に点在する家族経営の町工場であり、これが精密爆撃の成果が振るわない理由だと考えられたのである。そこでアメリカ軍は日本から町工場を一掃するために、人口密集地帯を対象とした無差別爆撃を開始したのである。

以上見てきたように、戦略爆撃の目的は日本軍の兵器生産能力を奪うことであった。これを言い換えれば、アメリカ軍は日本軍の戦闘能力に脅威を感じていた、ということになる。直接日本軍と戦えば、アメリカ軍は大きな損害を負うことになり、戦争に負ける可能性がある。そうなることを避けるために、戦闘が始まる前に何らかの方法で日本軍の戦力を削っておかねばならない。それが、アメリカ軍が戦略爆撃を行った理由である。

だとすれば、アメリカ軍が危険視していた戦いとは何だったのか。東京大空襲が行われたのは3月10日のことだが、その3週間後の4月1日にはすでに沖縄戦が始まっている。しかし、考えてみれば分かるように、戦略爆撃はあくまでも日本軍の兵器生産能力を奪うものであり、それ以前に生産された兵器が消えてなくなるわけではない。ゆえに、東京大空襲が沖縄戦に直接の影響を与えたとは考えにくいのである。戦略爆撃の効果は比較的長期的に現れるものであり、即効性のある作戦ではない。したがって、アメリカ軍が戦略爆撃を行ったのは沖縄戦のためではなく、沖縄戦よりももっと先にある戦い、すなわち本土戦に備えるためだったと結論できる。

整理しよう。アメリカ軍が戦略爆撃を行ったのは、日本軍の兵器生産拠点を破壊し、日本軍の戦力を低下させるためだった。しかし、兵器を生産できなくなることによる戦力の低下は、日本軍の上に徐々に現れるはずである。したがって、戦略爆撃は長期的な戦いを見据えたものであって、とくに本土上陸戦を容易ならしめるために行われたものだと考えられる。

では、肝心の本土上陸戦はどのような結果になったのか。アメリカ軍は勝ったのか、負けたのか。結果は誰もが知るとおり、アメリカ軍は上陸しなかったのである。これが意味することはひとつしかない。アメリカ軍は本土上陸戦から逃げたのだ。戦略爆撃によっても日本軍の戦力を必要なレベルにまで低下させることができず、九州に上陸すればアメリカ軍が敗北する可能性が高かった。そのため、アメリカ軍は上陸できなかった。この結果は日本軍の不戦勝である。

理由2:戦力の比較

さて、以上の議論によって、太平洋戦争の勝者が日本であることが明らかになった。しかし、これだけでは納得できない人もいると思うので、もう少し説明をしたい。

ここでは戦力の分析を行うが、その前に本土上陸戦の概要を説明しよう。アメリカ軍の計画では本土上陸戦は二段階に分かれ、第一段階は九州上陸戦、第二段階は関東上陸戦が予定されていた。九州上陸の予定日は1945年11月1日であった。一方、日本軍もアメリカ軍の行動について同様の予想を立てており、九州を決戦場と定めて戦力を集結させていた。

手元にある資料によれば、1945年7月時点で日本軍は南九州に11コ師団2コ旅団の戦力を配備していた。一方、アメリカ軍の九州上陸の予定戦力は14コ師団であった。

ここで、九州戦の比較対象として沖縄戦を考える。沖縄戦における日本軍の戦力は陸軍2コ師団1コ旅団を中核とする8~9万名であった。一方、アメリカ軍の戦力は7コ師団18万名であった。この戦いにおけるアメリカ軍の死傷者は約4万名であった。

日本軍の戦力は沖縄で2コ師団1コ旅団、南九州で11コ師団2コ旅団であり、1コ旅団=0.5コ師団と考えると、九州軍は沖縄軍の5倍程度の規模感であった。ただし、九州軍の戦力は終戦時点の数字であり、上陸予定日の11月1日までにこの数字がどう変動したかは分からない。また、終戦時における戦力については、師団・旅団のほかに独立大隊や砲兵・戦車部隊等も存在したはずだが、それらを合わせた正確な数字は把握していない。資料によっていろいろな数字が載っているので、比較検討する必要があるが、だいたいのところでいうと、沖縄の5倍程度と考えて問題はないと思う。

さて、基本的な数字が分かったところで、九州上陸戦の結果を予想してみよう。仮に、アメリカ軍の損傷率が沖縄と同程度であるとする。すなわち、日本軍2.5コ師団に対してアメリカ軍の損害4万という数字が九州上陸戦においてもそのまま適用できると仮定すれば、九州上陸戦におけるアメリカ軍の死傷者は約19万という数字になる。

九州上陸戦におけるアメリカ軍の予想戦力は14コ師団であり、師団数で見れば沖縄戦の2倍であるから、実戦力も2倍と予想できる。そうすると、アメリカ軍の上陸戦力は36万名となり、そのうち19万名が死傷するということは、上陸戦力の半数以上が死傷するという結果になる。これはアメリカ軍にとって非常に厳しい数字であり、敗北の可能性が高いと言わざるをえない。これに加えて日本軍の特攻作戦の熾烈さを考えると、アメリカの勝利はさらに遠のく。

理由3:補給線の脆弱さ

現代においては、歴史の研究者でさえも本土戦について真剣に考えようとしない。しかし、本土戦について考えなければ、太平洋戦争のことは分からない。太平洋戦争の終盤は主に本土戦をめぐる駆け引きであり、アメリカ軍があれほど執拗に戦略爆撃を行った理由も、本土戦抜きには理解できない。

多くの知識人は具体的な根拠も挙げず、漠然としたイメージに基づいて、日本軍が本土戦に勝てたはずはないと決めつけている。たしかに太平洋戦争の多くの戦いにおいて、日本軍はアメリカ軍の圧倒的な物量に押されて敗北を重ねてきた。しかしこれは裏を返せば、アメリカ軍は物量がなければ勝てない軍隊であり、物量の裏付けがなくなれば負けるしかないことを意味している。

たとえば硫黄島の戦いにおいて、アメリカ軍が使用した弾薬の量は日本軍の3500倍だったと言われている(堀江芳孝『闘魂硫黄島』)。だが、戦いの結果、アメリカ軍と日本軍の死傷者はほぼ同数であった。つまり、アメリカ軍は日本軍の3500倍の火力をもって、ようやく日本軍と互角に戦うことができたのである。これは恐ろしい数字である。というのも、もしも日米の火力差が100倍程度にまで縮まれば、アメリカの敗北は避けられないだろうから。アメリカは日本軍に勝つために膨大な物量を投入し続けねばならず、それがアメリカ軍の兵站線を圧迫していた。

アメリカ軍の長所は補給線の太さであり潤沢な物資であるが、同時にその弱点も補給線にあった。アメリカ軍の補給線の脆弱さは沖縄戦においてすでに露呈していたのである。

沖縄戦で日米の主力が最初に激突したのは嘉数高地の戦いだった。この戦いの途中で、アメリカ軍は一週間程度戦闘を休止していた。なぜかというと、弾薬を使いすぎて、ストックがなくなってしまったのである。そのため、アメリカ軍は追加の弾薬が届くまで攻勢を中止せざるをえなかった。沖縄における日本軍の戦力が比較的微弱だったからよかったようなものの、日本側の戦力がもっと充実していれば、この間に逆襲を受ける可能性もあった。非常に危ない局面であり、アメリカ軍の欠点が浮き彫りになった瞬間である。1

また、沖縄戦の初期には、アメリカ軍内部で沖縄南部からの上陸案がもちあがっていた。日本軍の本拠地が首里城にあることが判明した時点で、中部の嘉手納海岸からの上陸と呼応して、南部の喜屋武半島から別動隊を上陸させ、日本軍を挟撃する作戦が提案されたのである。しかし、上陸軍総司令官のバックナー中将はこの案を却下した。なぜかというと、補給に不安があったためだと言われている。アメリカ軍の兵站部隊は嘉手納海岸に物資を荷揚げするだけでも手一杯なのに、このうえ上陸地点が二か所に増えれば、物資をさばききれなくなる可能性がある。それが兵隊の命を危険にさらすことを考えると、南部からの上陸は断念せざるをえなかったのである。2

このようにアメリカ軍の兵站能力には限界があり、沖縄戦では二地点からの上陸すら断念せざるをえなかった。にもかかわらず、アメリカ軍は九州上陸戦において四か所から同時に上陸する計画を立てていたのである。はたしてこの負担に兵站部隊が耐えられたかどうか、アメリカ軍が不安を感じていたとしても不思議ではない。

本土上陸戦を遂行するうえで、アメリカ本国の生産能力に問題はなかったとしても、本国で生産した物資を前線に運ぶ輸送能力にはおのずから限界がある。アメリカ軍の補給線は沖縄戦ですでに限界を迎えていたのであり、九州上陸戦を戦う能力はもとより持っていなかった。ゆえに彼らは九州上陸を断念し、戦争は終わった。これを日本軍の勝利と解釈するのは間違いではないだろう。

帝国陸軍はレイテ戦に負けた直後に九州を決戦場とする考えを固めており、はじめから沖縄を捨て石にするつもりだった。日本軍は沖縄戦に半分の力しか出さず、九州上陸戦のために戦力を温存していたのである。ゆえに、日米戦の行方は九州上陸戦をまって判断されるべきものであり、沖縄戦以前の戦闘だけに基づいて戦争の結果を判断するのは片手落ちだと言わざるをえない。

アメリカ軍がいかに日本軍を脅威に感じ、本土上陸戦を恐れていたか。それを理解しなければ、太平洋戦争の全体像は理解できない。そしてそれを理解するならば、この戦争が日本の勝利であることもおのずと理解されるのである。

アメリカ人は、戦略爆撃や原爆の投下が戦争の終結に貢献したとして自画自賛しているが、これは大きな間違いである。というのも、この戦争が終わった理由は、日本が継戦能力を失ったからではなく、アメリカ軍が戦闘能力を失ったからにすぎない。したがって、戦略爆撃があってもなくても結果に変わりはないはずである。たとえ戦略爆撃が行われなくとも、アメリカ軍が自軍の敗北を予想して九州上陸を断念し、戦争が終わるという結果に変わりはない。ゆえに、戦略爆撃には何の意味もなく、ただの虐殺だったということになる。

戦略爆撃にしろ原爆投下にしろ、民間人の殺害を目的とした単なるテロリズムであり、こうしたテロリズムによって戦争に勝つことはできないということを、太平洋戦争は教えているのである。

このことはまた、核の抑止力が幻想にすぎないことを意味している。なぜならば、アメリカは核を使用したにもかかわらず戦争に負けたのであり、核兵器が戦争の役に立たないことは明らかだからである。我々は核の抑止力という幻想を克服するためにも、太平洋戦争の本質を理解しなければならない。


  1. アメリカ軍の公刊戦史にこの記述はない。嘉数高地の戦いは4月8日から24日にかけて行われ、その前半にアメリカ軍の行動が非活発化する時期があった。日本側の資料はしばしばこの点に言及する。一方、米軍公刊戦史の記述は4月18日から始まり、嘉数高地の戦いの前半部分が省略されている。なお、外間正四郎訳、米国陸軍省編『沖縄』(潮書房光人社、2013)を参照。 ↩︎
  2. ジェームズ・H・ハラス『沖縄シュガーローフの戦い』光人社、2007 ↩︎

太平洋戦争については『亜米利加物語』『真珠湾の敗因』も参照してください。よろしくお願いします。

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